セラピスト乙女塾とは

セラピスト乙女塾とは

セラピスト1人1人の悩みに寄り添う塾です

セラピスト乙女塾のモットーは即日体感、実践!

身体についての疑問にお役に立てれば嬉しいです

西洋医学、東洋医学、スポーツ、ジャンルを問わず

さまざまなテーマでわかりやすくお伝えします

今までスクール・セミナー・講座に行ったけど

習ったことをなかなか施術に活かせられない

たくさん学んだのに、もっと知りたいのに

どうしても難しくて立ち止まってしまう

聞きたいことあるけど、どこで聞けばいいの?

人の疲れや不調を取って元気にしてあげたい…

カラダの悩みを聞いてあげて、答えてあげたい…

どうしたら目の前の人に合わせた施術ができるの?

専門家だけではなく、私にできることはないの?

そんなセラピストたちが自分らしく自分のペースで

笑顔で楽しく、正しい学びを高め合う場所です!

 セラピスト乙女塾のはじまり
 セラピスト乙女塾のつながり
 ある日の楽しい講座の様子(動画)

参加している方々 

(名前は乙女塾ですが男子も大歓迎です!)

アロマセラピスト、スポーツアロマトレーナー

プロスポーツ選手、整体師、ボデイワーカー

美容師、サロン、スクールオーナー・スタッフ

医療従事者(鍼灸師・看護師・介護職など)

大切な家族・子供にケアしたい人

日頃から身体に興味があり、携わる方々が

たくさん受講しに来られています。

身体に触るのが、不安、苦手という方も

経験・技術・知識に関係なく

安心して学べるようお伝えします!

悩みが解消すれば

きっと型にとらわれない

自分らし施術に気づきます

自分にしかできない施術の可能性のために!

人に合った寄り添える施術ができるように!

施術するのがこんなに楽しいって思える!

そんな唯一無二の塾で学びませんか?

セラピスト乙女塾は

その一歩になれるよう全力でサポートします!

悩めるセラピストたち、集まれ!

セラピスト乙女塾 塾長

鍼灸師 松原貴大(タカヒロ)

             

                        

東洋医学講座「成章堂」(せいしょうどう)

成章堂(せいしょうどう)とは

私(松原貴大)の先祖であり漢方医だった

※松原一閑斎が江戸時代に京都で開いていた

東洋医学(漢方)塾の名前です

松原一閑斎は治術の妙手として知られていたが

医術(施術)はただその人の自得にある」

書籍に載せ伝えることはできないと手技で伝え

自らの著述は残さなかったと言われています

文献「傷寒論しょうかんろん」は

誰でも知っている

医師も処方する漢方薬のベースです

先祖の松原一閑斎は「傷寒論」(漢方)で

東洋医学を世に伝えた医師でした

私も鍼灸師になり20年以上が経ち

東洋医学の学びの素晴らしさと魅力を経験しながら

同じ道(ルーツ)・伝えていたことを

感じたく・歩きたくてこの塾名を名付けました

京都大学図書館より

「わかりやすい東洋医学講座」

成章堂の復活になれば幸せです

           

 東洋医学講座 成章堂  

鍼灸師 松原貴大(タカヒロ)

                      

松原 一閑斎(まつばら いっかんさい)

元禄2年1月10日 (旧暦)1689年1月30日)- 明和2年5月28日 (旧暦)

1765年7月15日))は、江戸時代の医学者。古方四大家に数えられる。

名は維岳(これおか)、通称は次郎。幼名を仁重郎、壮年の頃丹治、後才二郎と改める。一閑斎はその号。塾号を成章堂又は、盈科薬室という。須佐町(現 山口県萩市)に生まれ、明和2年(1765)京都において77歳にて没した。

墓は京都神楽岡迎称寺萩の寺)。並河天民に医と儒を学んだのち、京都衣棚通押小路下ル町にて医を営んだ。弟子として集まったもの数百人に及んだといわれる。長子の松原敬輔、三男の長井俊小浜藩医となり、二男の松原周治徳島藩医となった。主な弟子に合田求吾藤村九皐福島芳翁橋詰順治らがあげられる。

また、吉益東洞の「方証相対説」は一閑斎の治療術をヒントにしたものであるとされている。 最近、一閑斎の評価は高まって来ており、従来の「名古屋玄医→後藤艮山→山脇東洋」という古方派の流れよりも、「並河天民→松原一閑斎→吉益東洞」の流れのほうが『傷寒論』発掘の流れとして明確であるとされるようになって来たことから、著述無き為に従来ほとんど顧みられることのなかった天民や一閑斎にも注目が集まっているようだ。今後更なる研究が期待される医家であろう。

「出典: フリー百科事典 ウィキペディアより」